吉原選手の引退会見に関する記事を集めてみました。
将来的にリンク切れが考えられるのでURLの明記のみにしました。
他にもありましたらご一報願います。

http://www.nikkansports.com/sports/f-sp-tp0-20060605-41899.html
アテネ五輪女子バレーボールで日本代表の主将を務めた吉原知子(36=パイオニア)が5日、
都内のホテルで会見し、正式に引退を発表した。
昨年から、ひざの故障に苦しんで現役を退くことを決断したが、
この日は笑顔で「バレーを続けてきて良かった」と話した。

今後は東京を拠点にして、5月末に退社したパイオニアのサポートや、試合解説などの仕事をする予定。
将来は「海外で教えたりしたい」と指導者の道を目指す。

94年のVリーグ設立時のプロ化問題で大林素子さんと日立を解雇になり、イタリアのセリエAに移籍。
その後もダイエーなどを渡り歩いた。
五輪には3度出場して、アテネではしっかりチームをまとめた。
長い現役生活に「日立解雇は衝撃的だったが、あれが大きな転機になって頑張れた」と振り返った。



http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/news/20060606k0000m050105000c.html
バレーボール女子で3回の五輪に出場し、
04年アテネ五輪では日本代表の主将も務めた吉原知子(36)=パイオニア=が5日、
東京都内で引退会見を開いた。

引退の理由について「やるからにはトップで戦いたいが、
ひざの故障で思うようにプレーできなくなり決意した」と明かした。
88年に北海道・妹背牛商高を卒業して日立入り後、
イタリアセリエAのローマ、ダイエー、東洋紡、パイオニアと経てプレー。
長年にわたる選手生活を「(パイオニアの)セリンジャー監督に『限界を作るな』と言われ、
一日一日を悔いのないように続けたらこの年になった」と笑顔で振り返った。
今後については未定だが、指導者になることも視野に入れている。



http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=YNS&PG=STORY&NGID=spot&NWID=2006060501002391
バレーボール女子の日本代表として3度の五輪に出場した吉原知子(36)が5日、
東京都内のホテルで引退記者会見を開き「バレーを続けてきて良かった」と、
さっぱりした表情で現役生活を振り返った。
引退するのは「ひざの状態が思わしくなく、思うような動きができなくなった」から。
今後は5月末で退社したパイオニアと相談して決める予定で「いろいろなことを勉強したい」と話した。



http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/ballsports/news/20060605-OHT1T00164.htm
バレーボール女子の日本代表として3度の五輪に出場した吉原知子(36)が5日、
東京都内のホテルで引退記者会見を開き「バレーを続けてきて良かった」と、
さっぱりした表情で現役生活を振り返った。

引退するのは「ひざの状態が思わしくなく、思うような動きができなくなった」から。
今後は5月末で退社したパイオニアと相談して決める予定で「いろいろなことを勉強したい」と話した。
Vリーグ(日本リーグを含む)の4チームに所属し、9度のリーグ優勝を経験した。
1994年に日立(当時)から突然解雇され、イタリアに活躍の場を求めたことも。
「大きな転機だった。解雇の後は一日一日を後悔しないようにやってきた」と、
山あり谷ありの競技人生に胸を張った。



http://www.jva.or.jp/topics/topics200606001.html
6月5日、吉原知子選手(36)(パイオニア・レッドウィングス)が帝国ホテル(東京)で記者会見を行い、
所属チームであるパイオニア・レッドウィングスを退部し、現役生活を退くことを発表しました。
吉原選手はアテネオリンピックでは全日本のキャプテンを務め、
決して諦めないプレー振りがバレーボールファンに大きな感動を与えてくれました。
現役を退く理由について「膝の故障で思うようにプレーできず、
選手としてやるからにはトップレベルでやりたいとの想いがあり、
そのことから引退を決意した」と話していました。
今後については「所属チームに対し感謝の気持ちがある。
自分の力が役に立つことがあればお役に立ちたい。バレーボール以外でも様々なことにチャレンジしたい」と
新たな意気込みを語っていました。

■36歳という年齢までトップ選手として走り続けた理由について
「最初は20代後半で辞めたかった。
でもセリンジャー監督に出会い"限界を自分につくるな"と言われ、その言葉を信じ、
1日1日を後悔しないように続けてきたら今にいたった。」と現役生活を振り返りました。

■ 後輩に伝えたいこと
「何が起きても諦めないこと、
辛いことがあった時こそ強くなれるチャンスだと思ってがんばって欲しい」とエールを送っていました。

吉原知子選手プロフィール
生年月日 1970年2月4日生まれ(36歳)
身長 180cm
出身地 北海道雨竜郡妹背牛町
所属 パイオニア・レッドウィングス


経歴
1988年3月 北海道立妹背牛商業高等学校 卒業
同年4月 日立・ベルフィーユ 入部
1995年1月 イタリアセリエA ローマ 入部
1995年6月 ダイエー・オレンジアタッカーズ 入部
1999年6月 東洋紡・オーキス 入部
2000年7月 パイオニア・レッドウィングス 入部
球歴
オリンピック3回出場
92年バルセロナオリンピック 5位
96年アトランタオリンピック 9位
04年アテネオリンピック 5位
世界選手権2回出場
90年北京大会 8位
94年ブラジル大会 7位

ワールドカップ3回出場
91年日本開催 6位
95年日本開催 6位
03年日本開催 5位

日本リーグ優勝回数 3回(日立)
日本リーグ個人賞
ベスト6 3回(日立)
スパイク賞 1回(日立)
Vリーグ優勝回数 4回(ダイエー 1回、東洋紡 1回、パイオニア 2回)
Vリーグ個人賞
MVP 1回(東洋紡)
ベスト6 4回(ダイエー 2回、東洋紡 2回)
スパイク賞 1回(ダイエー)
敢闘賞 1回(東洋紡)



http://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20060605ie21.htm
女子バレーボールのアテネ五輪代表主将、吉原知子(パイオニア)が5日、都内で引退会見を行った。
36歳の吉原は、五輪後もひざのけがを抱えながらプレーを続けていたが
「軟骨がはがれるなど、私生活にも影響が出始めてきた」という。
その結果「思うような動きができず、トップの試合で戦うのは難しい」と判断、
5月の全日本選手権後に引退を決意した。

一番の思い出として、旧日本リーグの日立時代に、先輩の大林素子らとプロ契約を求める活動を行い、
これが原因で解雇されたことを挙げた。
「つらく、衝撃的だった。しかし、私は不死鳥のようによみがえってくるタイプ。
『こういう時こそ、その人の価値が問われる』と頑張ってきた」と振り返った。
最もうれしかったのは、全日本主将としてアテネ五輪予選を勝ち抜いたことを挙げ
「最低限の責任は果たせたと思っている」と語った。

今後の活動は未定。
「これから勉強して、将来力がつけば、全日本監督などもやってみたい気持ちはある」と、
指導者への道に意欲を見せた。



http://www.asahi.com/sports/update/0605/145.html
女子バレーの吉原知子が5日、東京都内で引退会見を開き
「つらいときは自分が強くなれるチャンス。何があってもあきらめないで」と北京五輪を目指す後輩を激励した。

日立解雇やイタリア移籍、7年ぶりの全日本復帰でアテネ五輪出場と、
体験した苦労は並大抵ではないだけに言葉にも説得力がある。
今後は指導者も視野に、語学習得などでしばらく充電する。
36歳までできた理由は、パイオニアのセリンジャー前監督のひと言とか。
「限界をつくるなと言われ、だまされたつもりで毎日悔いのないよう続けたら、この年になりました」
すがすがしい引き際の弁だった。



http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060606&j=0037&k=200606064199
アテネ五輪の女子バレーボール日本代表チームの主将で、パイオニアとの契約を更新せず、
現役引退を決めた吉原知子(36)=妹背牛商高出=が5日、東京都内で記者会見し
「いつ辞めてもいいようにやってきた。今は何も悔いはない」と
晴れ晴れとした表情で選手生活を振り返った。

引退を決意した理由については、昨年から左ひざに水がたまり、
日常生活に影響が出るほど悪化したことを挙げ「トップでやるにはちょっと難しいかなと思った」と説明。
今後の活動は未定だが「海外も含めていろんなことに挑戦したい。
指導者になってみたい気持ちはある」と語った。

思い出として、1994年、所属していた日立と、プロ契約をめぐって対立し、
大林素子さんとともに解雇されたことや、主将として日本チームを2大会ぶりに五輪に導いたことを挙げた。
解雇後イタリアのプロリーグに移籍し、試合に出られない悔しさも味わったといい
「1日1日を後悔しないよう、一生懸命やり続けてきた」ことが、その後の成長につながったと強調した。

会見では笑顔を見せていた吉原が表情を変えたのは、現役選手に何を伝えたいかと尋ねられたとき。
「つらいことが起きた時こそ強くなるチャンス。戦う気持ちでやってほしい」と厳しい表情に。
会見場には大林さんも駆けつけ、吉原に花束を手渡した。

吉原は1988年に妹背牛商高から日本リーグ(現Vリーグ)の日立入り。
パイオニアとの契約は5月末までだったが、更新せず、引退した。